モーリーのマスメディアに対する所感

これからエッセイ書きに取り組むのでtwitterをしばらく離れますが、ここ数日で何度か持ち上がったテーマがあったので、それについて少し考えを申します。「ネットだけでは足りない、こういうことはマスコミでやらなきゃ」という意見です。

ネットやツィッターを多少使いこなしている人だと、チュニジア・エジプト情勢で急速に国際リテラシーが上がり、RTも使われ方によって大きな威力を持つさまを目の当たりにしています。また、民衆の強い意志にTwitterとFacebookが加わったときの歴史を動かす現場も、参加者として体験。

ですが、この3週間ほどをまったくの蚊帳の外で過ごした日本人の方が圧倒的に多いという現実がそこにあります。たとえば今日の日付でニュースを見て、検索をかけている内に「Twitterというところ」で盛り上がっていることを知り、ハッシュタグが何かもまだわからない状態でTLを見た人。

あるいは今もって日本のテレビを頂点にマスメディアだけが責任ある客観報道をしていて、それ以外は全部うわさ話かねつ造情報かも、と警戒する人。後者をぼくは「日本のカダフィたち」と命名しています。もしくは「Wikileaksという犯罪的な組織がいる」ぐらいの「問題意識」を持った人。

IT革命の革命的な側面の1つに、自己学習があります。マニュアルがなく、教師から教わらなくても、自分でいろいろと情報やツールに触れている間に、自然とリテラシーが磨かれていく点です。マスコミにはそういうインタラクションや情報開示が構造的にないので、テレビ中心の生活者にはぴんと来ない。

それでもチュニジア・エジプトの革命はビッグニュースですから、断片的で細切れながら、日本のマスコミも(適当な解説を付け加えながら)流しています。その結果、熱気の断片を映像で見た人々が「もっと知りたい」とネットに流れる。これは、自然なことでいいことだと思います。問題は理解の壁。

そこでぼくからすると本末転倒にあたるリアクションをする、素人が増えている気がします。暇があれば一つ一つ丁寧に答えていきますが、事態が動いており、日本で翻訳をする有志が極度に少ない以上、個別のフォローはできません。そこで、ここにその手の疑問に対して一括の返事をいたします。

ケース1)「こういう翻訳や情報拡散は本来、マスメディアでやるべきことだ。あなた、何でマスコミに出ないんだ?」 -- 数件、同じようなことを異口同音に(2回ほど直接の会話で)言われました。答え:マスコミはモーリーを出したがらない。過去に体制とぶつかっていて、危険視しているから。

J-WAVEで政治家を討論番組で怒らせて番組を降板させられた事例。外国人参政権をネットで取り上げて炎上し、番組での扱いが自粛された例。大麻取締法のあり方を懐疑的に考える番組をやった際に、厳重警戒・検閲の対象になった例。チベット問題で中国政府を批判して注意された例。

あとはあまり覚えていませんが、2001年から報道番組で果てしない検閲と検閲かいくぐりのような葛藤を続けており、「ちゃんとしたジャーナリズム」と評価を受ける一方で「危険すぎて番組に出せない」と判断する人がマスコミ大多数です。番組担当者の多くが「モーリーさんのファン」であり、同時に番組に呼べないという状態です。

2009年末を持って、J-WAVEの報道解説番組は終わりました。その後、マスコミから声はかからず、こちらからもアプローチしていません。マスコミに出ることをぼくの方で拒否しているわけではないのですが、さまざまな番組のディレクションをしている制作側が萎縮するので、声がかからない。

中国の人権問題を指摘したり、チベット問題などの人権問題を口にすることについて、報道メディアはとても慎重になるようです。単純にそこに人権蹂躙が日常的にあるという事実を指摘するのではだめで、「そういう声もある」で止めないといけない。言ってみれば日本の報道メディアはナイルTVっぽい。

もうひとつ、このようにはっきりとした物言いをするとメディア関係者の中で「右翼かも」「いや、左翼か?」と言ったスイッチが反射的に入る場合も多いようです。ぼくの意見は欧米メディアのほぼ真ん中で、とくに革命的でも主観の暴走でもないように自分では思いますが、とにかく恐れられている。

それが「なんでマスコミに出てこれをやらないのか」への答え。次にケース2)「ネットでやっていても8000人ぐらいのフォロワーだとリーチが少なすぎる。日本中に届かないでしょう」云々といった「ネットは些末なもの」論。

つまり、こうして翻訳Twをし、それがオニのような速度でRTされていても、「結局ネットに消えてしまう」から無駄だ、と言いたげな意見ね。陰謀の本と並んで「日本が危ない」みたいなタイトルでこのTwをまとめれば、そういう意見の持ち主は満足するのかも知れません。でも、ぼくは満足できない。

著名人、有名人、フォロワーがたくさんいる人、テレビに出ている人が、ではこれらの翻訳TwをRTすれば、それが「メジャー化」なのか?受け取る人数が増えるから?その理論の道筋自体を、ぼくは大いに疑っています。毎日数千万人がテレビを見て、このていたらくなのはなぜなのか?

「ネットで団結したリーダーたちが、テレビ局を乗っ取ればいいんだ」式のおとぎ話を思い描いて期待する人もいるようです。でもテレビ局がナイルTVのように報道を独占しているならばともかく、今やっていることをテレビは構造的にできないんですよ。

それに、ぼくが手がけている「Groove Japan」の公式サイトで動画を見てください。HDモードにしてフル画面モードで。これ、テレビより被写界深度もいいし、画質もどちらかというと映画。すでにネット動画がテレビを越えているんです。http://groovejapan.jp/

テレビや新聞の中に溜まってしまった澱・宿痾をこれらの媒体が自浄することは、基本的に無理。できていたら、10年前にとっくにやっている。でも内部で「変わった方がいい」という人の声は、ぼく自身が体験し続けたように、ひたすら握りつぶされる。そういう構造なんですよ。期待できない。

したがって(1)これはマスコミでやるべきことだ(2)ネットでやっていても消えてしまって影響力がないからもったいない、という2点については「ノー」です。ネットの力と有志の英知が結集していて、これで十分なのです。そしてフォロワーが8000人でも80万人でも違いは、ない!

マスコミは最適な規模をとっくの昔に越えて肥大しているため、今後はどんどんと淘汰が進むだろうと読んでいます。その過程でテレビのチャンネルも多すぎるので、どこかからつぶれ、他局に吸収されるでしょう。スクラップになっていく過程でお笑い芸人が絶叫をしているのです。テレビの断末魔。

テレビ、新聞がまともにやらないことを、今日本の市民が(アメリカ人のぼくも一緒に)かっちりやっているのです。このムーブメントには情報リテラシー、メディアリテラシーが伴い、そして咀嚼する上でもリテラシーが求められます。愚民化装置としてのマスコミの時代は終わったのです。

ですから、この問答を機会に、今後「マスコミでこれをやって」「マスコミにこれを企画として持ち込んで」「著名人の○○と対談して、テレビで」みたいなリクエストは無しということでお願いします。そんなに何かが言いたい人がいるなら、「i-morley」に出ていただくので十分です。

ぼくは、マスメディアで活動している人たちと接点ゼロではありません。たとえば3月15日にロフトプラスワンで「オフィス北野」所属タレントほかと対談します。詳細はこちら:http://amba.to/g20Fz2 イベント名:「舌先アルカイダの逆襲!!」

今後、日本を変える動きに積極的に荷担し、参加者、当事者であろうと思います。ですが、ぼく一人がマスコミの時代風に「新たな指導者」となることでも「チェ・ゲバラ」になることでも、それは、ない。全員が個々に自分でできることを連携させ、大きな波が出来ていくのです。リーダーは必要ではない。

個々人が自分の力に目覚め、それが異なる才能や見方を持つ人同士の間でリズムを持つ、そのうねりをぼくは「Groove」と呼んでいます。新たなエネルギーのほとばしるチャネルを見つけ、間欠泉を噴出させたいのです。でもそれはぼくが魔法の杖でやることではなく、みんなの中で覚醒すること。

ぼく自信が自分の内奥にあるエネルギー、尊厳、パワーに気がつき、それを呼び覚まし、勇気を持って行動に移す。そのことが同時に他の人の中にあるすごいものと共鳴し、感受性のある個人から先にそのバイブレーションが伝わり、覚醒の波が広がる。これがモデルです。

個々の多様性に優劣や、数値化できる技能の査定は存在しない。受験制度の後遺症なのかもしれないけど、点数がついたり審査員に認められたりコンクールで受賞とかのブランドがないと、あるがままを受け止められない人が多すぎる。でも一方でそこから自由になる人たちも急速な勢いで増えている。

「より自由な人」と「それでもスクエアーな穴に閉じこもる人」の戦いが起きているわけではない。そして数で圧倒した方が最後に勝つのでもない。マスコミを通したものの見方だと、この単純な真理が見えなくなるのです。変化は、人々が心を開いたときに、どっと押しよせるもので、理屈だけではない。

国際リテラシーとITリテラシーを持つ「新たなエリート」の出現に期待しているのでも、ありません。そういう旧体制の価値観や世界観すべてを抜けだし、もっともっと楽しめることや世界の真実がそこにある。ただその単純な自覚を味わい続けたいのです。これがぼくの生き方です。

何よりも大切なのは、自由です。タフリール広場ですべてを賭けて平和的に戦った人たちがそれを教えてくれました。失敗するリスクを恐れて不自由な生き方を選ぶ人たちは、あっという間に人生が終わったときに何というのだろう?でもぼくは自分がやりたいことだけをとことん追います。

マスコミが「こうすればいい」というのも、ないです。もう良くなることは不可能だと思います。マスコミでなくなるのが一番自然でしょう。ソ連の崩壊と同じぐらいに。このシンプルな直感を持つことが「危険」なのなら、精一杯タイタニック号の上で最後の最後まで歌い続けてほしいもの。

ということで #egypt #egyjp #feb12 そして#iran へと戻ります。では、これからエッセイに取りかかりますので、しばらくオフラインになります。また!

Posted by i-morley : 10:04