今シーズン最後から2番目の放送



オフィスからの今シーズン最後の放送 from groove japan on Vimeo.



【参照文献】
東京新聞コラム「筆洗」2011年8月7日付け
-->記事リンクへ
抜粋「▼広島と長崎で被爆者の診察、検査をした米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)は治療を一切しなかった。死者の臓器は米国で放射線障害の研究材料になった。まるでモルモットだ▼研究データが、米国の核戦略のために隠されることなく、共通財産になっていれば、水や食べ物を通じて取り込んだ放射性物質が、ゆっくり人体を蝕(むしば)む内部被ばくの恐ろしさも広く認識されたはずだ」
※この部分を反証するべく、現在モーリーは過去にABCCに勤めていた医師の父親に問い合わせ中です。

【2011年8月13日時点での検証】 1947年3月の米国政府文書
United States Strategic Bombing Survey - Effects of Atomic Bombs on Health and Medical Services in Hiroshima and Nagasaki - Medical Division - March_1947
--->文書のスキャンへのリンク

膨大な資料なので、まだ手を付けていませんが、ごく一部に目を通した感触は以下の通りです。
A)米政府が調査団を広島に派遣した1945年下旬までにはすでに放射能の毒性で多くの被爆者が亡くなっていた
B)日本政府は敗戦後の混乱もあり、どう対処していいかわからず広島市を放置していた
C)遺体の身元確認がなされないまま、積み上げられて火葬が行われていた。
D)調査団が派遣された際、被害者があまりに多く、対応できる医療品もなく、米国側の人員もそれほどいなかったため、治療は見送られた。また、政府から「治療ではなく調査を優先せよ」との意向も感じられた。
E)被爆者が検査目的で米軍に召集される際には軍用車両で迎えが来たため、地元では評判が悪かった。
F)加えて、1945年時点で日本政府の戦争で罹災した国民に対する医療の対応は短期でしか制定されていなかった、と米政府のレポートにかかれてあります。 戦前の日本では国民の医療や災害対策はそれほど重要視されていなかった、とレポートは指摘。原爆投下の後は、まったく手付かずの状態が続いていたことに呆れたトーンで書かれてあります。当時の占領体制の下で書かれた文書であり、戦争で破ったばかりの日本政府に対する同情のトーンはありません。

モーリー・ロバートソンの父親にメールで質問をした回答
<要点>その後ABCCの活動が本格化した際に、米国の医師が被爆者を治療するのは「日本の医師免許を持っていないから法律違反だ」とする見解があり、米国人医師たちは慎重になっていたそうです。
<背景>1968年-1976年の間・ABCCに赴任。心臓内科の研究医として被爆者の救済にあたった。日本は1952年の主権回復後、すでに16年経っていた。
◯GHQ占領中は米国人医師でも日本で医師免許をペーパー・テストにより取得する方法があった。その後 ,厚生省が難色を示したためこの制度は廃止。
◯ABCCでは米国人医師が日本の医師免許を持たないため、治療をすることが日本の法律で許されなかった。
◯したがって日本人医師が被爆者を治療する際に立ちあってアドバイスをするという建前を取った。
◯治療が困難な場合は頻繁に日本人医師がABCCに勤める医師たちの助けを借りていた。
◯ABCCに派遣された米国人医師たちは慈悲の心に満ち、被爆者の救済を手伝おうとしていた。

【所感】
以上が現在調べた結果です。同コラムにあった「死者の臓器は米国で放射線障害の研究材料になった」については、根拠となる文献が提示されていないので、筆者に公開していただきたいところです。8月7日にわざわざ「モルモット」という言葉を使いたいがために書かれたコラムに思えてなりません。反米・反戦の思い出と反核の感情をまず誘導し、それに抱き合わせで反原発を主張するのは、どう見ても根拠や論証データに乏しい活動家の説得手順です。脱原発に向けて「再生可能エネルギー特別措置法案」を通せば、それでいいのだろうか、と疑ってしまいます。

原発と基地問題と原爆を同一線上で並べ、情動に訴えかける議論を行うのは左翼団体や反核・反原発の活動家によく見られるパターンです。その直近の例が以下の原水禁大会です。
毎日新聞(琉球新報からの転載)原水禁大会:「脱原発」「脱基地」訴え 沖縄アピール採択
--->記事リンク
<記事抜粋>
 「脱原発社会」「核兵器廃絶」をスローガンに被爆66周年原水爆禁止世界大会・沖縄大会(主催・同実行委員会)が11日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開かれ、県内外から320人が参加した。沖縄開催は1995年以来、16年ぶり。大会では原発推進と沖縄の基地問題を「『命』の危険が地域に押し付けられ、その上に『国策』が進められる構図」で同じと指摘。「一人一人の命に寄り添う社会、政治を実現しよう」とする沖縄アピールを全会一致で採択した。
...
 原水禁議長で長崎の被爆者でもある川野浩一さんは主催者あいさつで「『命(ぬち)どぅ宝』は脱原発の運動とも合致する。原発は廃止以外ない」と原発、核に頼らない社会の構築を訴えた。

原水禁は左翼活動家と連合になって、エネルギー問題のダイアローグをハイジャックしているだけだと思います。3.11の大震災による精神的なショックを契機にツィッターを使い始め、政府の発表が信じられずインターネットに「真実」を探し求める人が増えています。ツィッターに「世論」があるかのように感じた人たちの中には、「にわか脱原発」へと流れる意見がおびただしく見られます。しかし、リテラシーが低いまま「政府の嘘を指摘する団体は正しい」とせっかちに判断してしまうと、「オルグ」される結果が待っています。

池田信夫 blog : 「脱原発」という呪文
<抜粋>
日本では反体制運動が、連合赤軍や内ゲバという凄惨な形で終わったため、ここ30年ほど起きなかった。そこで極左は「反原発」ではなく「脱」という曖昧な言葉で多くの人々を動員する戦術に転換したのだ。6・11新宿デモや「エネルギーシフト勉強会」の事務局に中核派がいたことは公然の秘密である。 もちろん動員されている人々の大部分は、そんなことは知らないだろう。今度の事故で初めて原発を知った初心者がマスコミの流す恐怖にあおられ、「子供の命」とか「自然を守れ」といった気分で反応している。

BP Net:田原総一朗コラム 脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている
--->記事リンクへ
<抜粋>
条文を読まずに「安保反対!」と叫んでいた

 何の検証も議論も行われずに脱原発に突き進むのは、ある意味では恐い。私には、それは60年安保闘争と似ているように思える。

 60年安保闘争は、岸信介内閣が日米安全保障条約の改定に取り組んだときに始まった。私は当時、毎日デモに参加し、「安保反対! 岸首相は退陣せよ」と叫んでいた。

 安全保障条約は、吉田茂内閣が取り決め、岸内閣がその条約を改正し、その内容は日本にとって改善されていた。だが、私は吉田安保も改定された岸安保も条文を読んだことがなく、ただ当時のファッションで安保反対を唱えていただけだった。「岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改定に違いない」と思っていたのである。

 当時、東大の安保闘争のリーダーは西部邁氏であった。私は西部さんに「吉田安保と岸安保はどこが違うのか。それぞれを読んだか」と聞いてみた。西部さんは「読むわけないだろう。岸がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ」と言っていた。

 60年安保闘争に参加していた者はほとんど安保条約の中身など読んだこともなく、ただ反対していただけなのである。科学的・技術的な議論が行われない脱原発の動きは、この安保闘争とよく似ていると感じる。



※現在の調査結果は以上です。今後、新たな資料を見つけた場合は追記します。関連資料や役に立ちそうな情報を見つけた方はフォームにてお知らせください。

【追加資料】
NHKドキュメンタリー(2010年)封印された原爆報告書
--->Daily Motionにパクられた動画リンク

47NEWS:米、日本への核配備狙う 50年代、公文書に明記
--->記事リンク
<抜粋>
「米政府が、日本への原子力技術協力に乗り出した1950年代半ば、原子力の平和利用促進によって日本国民の反核感情を和らげた上で、最終的には日本本土への核兵器配備にこぎ着ける政策を立案していたことが4日、米公文書から分かった。
 米公文書は、当面は核兵器配備に触れずに「平和利用」を強調することで、米核戦略に対する被爆国の「心理的な障壁」を打破できると指摘。米国の原子力協力は54年3月の第五福竜丸事件を機に本格化したが、米側に「日本への核配備」という隠れた思惑があった実態が浮かび上がった。」
長崎大学からの資料:
--->掲載ページへのリンク
<抜粋>
「米国陸軍病理学研究所からの返還資料
被爆直後より米国や日本の科学者によって調査・収集された膨大な学術資料、被爆者の病理標本や記録等はアメリカの陸軍病理学研究所(The Armed Forces Institute of Pathology: AFIP)にて整理・分析されていました。
 1973年5月、診療記録および剖検ファイル約8,000件、ホルマリン固定臓器(約300症例)、パラフィン・ブロック(約350症例)、プレパラート(約200症例)、写真(約600点)が日本に返還されました。さらに1983年11月、写真700枚を含む約2,000点の資料が返還され、それぞれが保存されています。」

※2011年8月12日から8月13日にかけてモーリーが連続Tweetしたまとめはこちらにあります。

【2011年8月15日のアップデート】
○TBS 報道特集「今タブーを破る!元米軍兵士4人の証言・・・在日米軍の核」 (2011/8/13 放送)
--->パクられた動画へのリンク

○中国新聞のABCC(放射線影響研究所=放影研)に関するシリーズ記事
放影研60年(2007年に連載) --->連載トップへ
○個別の記事抜粋:歴史をつむぐ 交流の記録 真実に迫る
--->記事リンクへ

■モーリー・ロバートソンの父による資料提供
「Atomic Bomb Museum」公式サイトにある年表からの引用
「May 9, 1973 - Ministry of Foreign Affairs holds ceremony for return of Hiroshima-Nagasaki A-bomb records confiscated by U.S. during Occupation (1945-52).」
(日本語訳)
「1973年5月9日 - 米政府が占領中(1945-52年)に応酬した、広島と長崎に投下した原子爆弾に関する資料を返還するための式典が外務省により執り行われた」

■1973年に米政府がそれまで応酬していた被爆者の臓器標本を日本政府に返還したことが記述された1998年に出版された論文
M. Susan Lindee著
「The Repatriation of Atomic Bomb Victim Body Parts to Japan: Natural Objects and Diplomacy=原子爆弾犠牲者の臓器を日本に返還」
--->原文へのリンク
抜粋:「終戦直後から28年間米政府に持ち去られ、保管されていた原子爆弾犠牲者の臓器標本が1973年5月、日本に返還された。」

<<この時点でのモーリーの所感>>
ABCCが発足した初期、敵対国である日本を占領した米政府は犠牲者(被爆者)の臓器を摘出・応酬し、アメリカに持ち帰っていた。アメリカでは来るべき共産圏との核兵器による対決に備えるべく、核戦争を生き残るための有益な資料として保管。貯蔵に用いられた施設も核攻撃に耐えうるものだった。

その後、ABCCの体質は変わっていく。モーリーが5歳だった1968年当時、一家で広島に移住した時期にはすでに積極的に被爆者の治療はなされているとの印象を子供心に持っていた。厚生省の規定により米国人医師が被爆者の治療にあたることは許されず、日本人医師が治療する現場に立ち会ってアドバイスをするという建前が貫かれた。当時の日本の医療は米国の水準に満ちていなかったため、このアドバイザーとしての参加は日本人医師にも被爆者にもありがたがられた。

個々のアドバイザーとなった医師と被爆者の関係は多様であっただろうから、中には「人間というよりモルモットの扱いだった」と不満を覚えた患者もいただろう。しかし仮に一部で精神的な被害を被るインシデントがあったとしても、それだけでABCCがその存続期間を通して日本人を一概にモルモットと見なしていたかのような印象を与えるのは間違っている。

また、終戦直後の占領時期には米政府・米国民の日本に対する感情は敵対的なもので、懲罰的に扱ったとしても不思議ではなかった。現在でも米政府は広島・長崎の原爆投下を公式に謝罪していない。その背景にある地政学と軍事バランスを鑑みても、心ない結果ではある。しかし同時に、日本が「最後の一人まで戦う」と宣言してアメリカに徹底抗戦し、米軍にも多大な犠牲者が出たことは加味されるべきだ。なぜ原子爆弾が戦争犯罪とは見なされていないのかを、大局的に考えるべきである。

また「被爆者達は米政府にモルモット扱いをされた」とする主張が反原発へと結びつけられる論理展開も情緒的であり、原爆の記念日にぶつけて掲載された、国内向けのアジテーションと呼ぶほかはない。

Posted by i-morley : 02:41