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名前:こさめ
メッセージ:わー、
はじめてメールをお届けして、公共掲示されて、モーリーさんからお返事頂いて、ほかのリスナーさんからの反応があって、気恥ずかしいですね(私、今までネット傍観者だったから(積極的にネットの世界に入ってゆかなかったから(身近な者同士のコミュニケーションにしか興味がなかったから)))。
でも、なんだか変にテンションが上がって嬉しくなって、このi-morleyのページ、プリントアウトしてしまいました。
さて、広告批判ステッカーのことですが、私、個人的に、「批判」という言葉に批判的です。
とはいうものの私は「批判」という文字に反応しているだけです。
私はモーリーさんの言葉に共鳴しています。私は常々、倖田來未の熱狂的なファンや蛯ちゃんのような人に憧れて美容整形に走る人、安易なドラマに感動している人は永遠に心が迷子だろうな、と思っていましたから、そういう私の中に漂っていたものを言語化して批判してえぐり出して分からせてくれるモーリーさんの心意気がとても心強いです。
でも、i-morleyステッカーが「批判」というイメージを醸し出しているのはマイナスという気がするのです。Tシャツを購入してステッカーを手にした人にも、広告に貼られたステッカーを目撃した人にも共鳴して面白がられる、ということが鍵だと思うのです。ほんとうに大切なものを目覚めさせる(「目覚めさせる」というと何か宗教的で嫌だけど、「気づかせる」とか「意識させる」という言葉より少し強めの、うーん、「意識に刺激を与える」という感じですかね)そういうステッカーになってほしいな。文言がねー、難しいですよねー。
ちなにみ、私が考えた文言は、モーリーさんと池田さんの会話で「男はコミュニケーション能力が問われている」ということを言っていて、ほんとうにそうだよなー、と思って、好きな人とのいろんな部分での対話(それは痛みだったり傷だったり悦びだったり優しさだったり何気ない日常だったり日常の疲れだったりフェティシズムだったり快楽だったりいろんな部分で感じあうこと(それは言葉の対話と感受性の対話と肉体の対話の積み重ね))を求めてゆきませんか?と問いかけたつもりなのだけど、公共掲示された自分の言葉を客観的に眺めると、ひとりよがりが全面に現れていてなんだかとっても恥ずかしい。
i-morleyステッカー、訴訟が怖いですね。
訴訟というリスク回避にも繋がるような気がしている、共鳴して面白がって参加したくなる文言を宜しくお願いします。
お返事
わー、訴訟はいやだ!とか言いつつ、これは裁判に発展した場合も考えてやるしかない(1)という考え方と、おもしろくやって一番大切な部分を目覚めさせつつ、社会全体に受け入れられる(2)という考え方の2つがあると思います。見方によっては、弁護団をあらかじめ付けてやることですら、パフォーマンスの範疇に入るわけでして。
でも、誰かが言ったように「キリスト」の路線で、強い行動を取らずにスピリチュアルなバイブレーションだけで発信していく選択肢も、別途あるかもしれません(とか言いつつ、キリストは既存の権力に真っ向から刃向かい、実行動を取ったことで処刑されたという史実はどうなるのか、と突っ込みたくなっていますが)。
『社会党・土井たか子委員長』のようなイメージで政治性を強めていくのがいいのか?ジョン・レノン的な『イマジン』路線を行くのか?あるいは倖田來未さんの次のアルバムに参加させてもらうことと引き替えに黙ってしまって「いい音楽作り」に徹するのか?引き続きみなさまのご意見を広く問いたいところです。
Posted by i-morley : 2007年08月25日 12:02
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